児童虐待、いじめ、不登校・引きこもり、自殺未遂、発達障害、うつ病・・・今日本で社会問題になっている事のうち、体験していないのは麻薬と非行だけです。
わたしはキリスト教高校に入学しました。というより入れられました。父はクリスチャンだったわけではありません。わたしが入学した学校は茨城県内でも有数の名門校であり、別名お嬢様学校と呼ばれる私立の学校でした。父兄のほとんどが医者、政治家、議員、大会社社長、重役、会長といった人たちです
。当然寄付金も相当な額だったようです。見栄っ張りで誰よりも世間体を大事にする父がこれを見逃すはずもなく、見事入学。 そうしてこの入学を機にわたしの人生は大きく変わっていったのです。初めて手にするぶ厚い聖書。まず1ページを開いて最初の1ページを読み始めたとたん、思わす「プーッ!」と吹き出してしまいました。”天使?悪魔?なにこれ!まるっきりおとぎばなしじゃない。こんなのを大の大人が本気で信じてるなんて、ばっかじゃないの?”これが最初の印象です。しかしその一年後、わたしはクリスチャンになっていました。 これは父にしてみれば寝耳に水、とんでもないことだったのです。洗礼を受けた教会へ怒鳴り込んだようです。
毎朝の放送礼拝、週に一度の全校礼拝、毎日聖書の授業がありと、とにかく神様三昧の生活でした。でも本当にわたしの心に聖書のみことばが入ってきたのは、二年生になってからです。それは恒例の朝の放送礼拝の時でした。メッセンジャーは誰だったか覚えていません。(後にラジオ聖書放送「世の光」であった事がわかりました。だから羽鳥明先生だったのですね。)最後の終わり方がいつも同じでした。「・・・神様は命を捨てるほどにあなたを愛してくださいました。あなたも変わります。」ずっと愛されたい、こんなわたしでも”大事だよ”と言ってほしいと心から欲していたわたしの心に、この言葉がまるで清水のようにするすると流れ落ちてきたのです。そして少しずつ大きな凍りついた心を溶かしていきました。涙が止まりませんでした。やっとわたしのSOSを捕らえてくれた、それがキリストの神様でした。そうしてわたしはホーリネス教会で、クリスマス礼拝の時に洗礼を受けました。洗礼を受けると言うことは苦しみから解放されることではありません。この地上に住む限りあらゆる悲しみ、苦しみ、辛い体験は無くなりません。それどころか苦しい事ばかりでした。
考えてみると、わたしは16歳でキリスト教と出会ってから好むと好まざるとに関わりなく、どっぷりと神様の愛に浸りきって生きてきました。
まずキリスト教高校に入学できたことが奇跡だと思っています。愛に飢え乾き、すべての心の支えを失い、絶望的な状況に追い込まれていたからこそ、わたしのぎりぎりのSOSをキャッチしてくださった神様のみことばが心に強く響いたのです。同じ敷地内に大学がありました。わたしはほぼストレートで進学しました。というより他の選択がことごとく消滅したゆえの苦肉の入学でした。専攻は社会福祉です。それを指示したのはまたも父です。理由は就職率が良さそうだからという事でした。でもこの選択は正しかったのです。ここで一生の師と出会い、カウンセリングと出会い、ずっと病んでいた”心”の治療を受けることができたから。わたしを苦しめていた”しょんべんたらし”とさようならできたことも、ストーカーという愚行からも開放されたことも何より大きかったですね。敷地内にたまたまカウンセリング研究所が設置されていて、クリスチャンサークルの先輩がわたしを誘ってくれたのです。当初わたしの精神年齢は3歳だと言われていましたが、卒業する頃にはやっと15歳ま
で回復していました。
そんな状況で、当時は教会員の皆さんをわたしの勝手気ままさで、どれだけ振り回し不愉快な思いをさせてしまったことでしょうか。とにかく自分のことだけでせいいっぱいでしたから、牧師先生や兄弟姉妹がどれだけすばらしいメッセージをくださっても、まったく心に残りません。聖書に書かれている事もわかりません。感謝の心もわきません。不平不満、つぶやき、”なぜわたしだけが?”という周囲への憎しみと恨み、不安と恐れに悩まされました。しかし、それでも神様は人や物事を通して「あなたを愛しているよ」と繰り返し語りかけてくださっているように感じました。サークルのイベントで参加した、単立教会系のクルセードで、出会ったカウンセリングを通して、神と人に仕えたいと考えるようになりました。わたしはそこで、ほんのちょっとだけ祈ったのを覚えています。今、二十数年の時を経て、わたしは最高の講師と出会いカウンセリングを学んでいます。
初めての就職先は宗教法人の病院でした。ですから自動的に毎週礼拝に参加できていました。これも感謝です。他の就職先は全部だめでしたから、だめもとでアプローチしたらOKだったのです。でもね、体は大人でも心は15歳ですから、過酷な看護職がうまくいくはずもないですよね。一年で解雇です。その過程で、知人を通じて共働学舎の創設者jの宮嶋真一郎さんに出会い、わたしはその後、共働学舎で20年の歳月を過ごす事になります。共働学舎の名前の由来になったみことばは、ローマ人への手紙8:28節
「 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」です。
共働学舎には、わたし以上に”生きづらい”というより、”生きられない”人たちがたくさん集まって生活をしています。わたしは、そのなかで、もみくちゃになりながら、「人との関わり方」を学んでいきました。ずいぶんと荒治療でしたが、これくらいでないと当時のわたしでは、どうにもならないレベルだったのかもしれません。もう一つ学んだ事。それは”愛”です。「生ける者すべてが、神の慈しみの中で生かされている」この発想は、当時のわたしには、とても新鮮な驚きでした。なぜって、私の育った家庭は「愛」などひとかけらも感じる事のできないものでしたから。ペットは”不要になったら捨ててもいい動くおもちゃ”でした。でも、共働学舎では家畜も「家族」と呼びます。犬、猫にいたるまでみんな家族。だから、動物の一匹が病気になると可能な人たちは寝ずの番をして、動物を介護し命を引き取るその時まで、そばによりそうのです。わたしも、その愛されている命の1つであると、宮嶋先生は何度も語ってくれました。時には、わたしの背中をやさしくさすりながら・・・。初めて畑で土を両手ですくった時に、肌を通して感じたぬくもり、命の暖かさが指の先から体中にしみわったってくるようでした。
共働学舎は、すべての人に「お給料」と称して小遣い程度のお金が支給されます。おおよそぜいたくは無理ですが、衣食住は完全に守られています。共働学者との出会いはわたしが20歳前半の時でした。やっと見つけた安住の地、わたしの居場所・・・その暖かい居場所をなぜに、40代半ばにして出てきたのか、それも重度の精神障害を抱える亭主を引き連れて・・・。まるで、苦労を引き受けるような愚かな行為と多くの人はそう思ったでしょう。でも、わたしの体の底から湧いてきた「社会でもう一度生きてみたい」という欲求を、どうしても抑える事ができなかったのです。
一から人との関わり方を学んできました。自分も神様に愛されている者のひとりであることも知りました。そうして自分を取り戻していったのです。元気になってきたら、もう一度社会へ出て人との関わりの中で生きてみたくなりました。共働学舎にいれば、すべてにおいて守られています。安心のうちに生きてもいけます。でも守られて生きる生き方よりも厳しい環境に身をおいて、さらに成長したいとも思うようになりました。20年過ごした共働学舎に別れを告げ、わたしは今の生活を続けています。どのような状況になろうとも、必ず神様は道を開いてくださるという希望を与えられました。
こうして、紆余曲折を経て今日にいたっています。人の歩みは様々です。それぞれの人の理解力に応じて様々な成長の方法があります。 この世のあらゆる悲しみ、苦しみ、辛さのすべては大いなる力の中で起きます。いつだって何があったってすべてが最善なのです。わたしが生まれる以前から、わたしだけの人生プランが用意されていました。
「ずいぶん、いろんなところをくぐらされてきたんだね」「波瀾万丈の人生」と評される事もしばしば・・・。確かに自分でもよく生きて来れたなと思います。偶然の重なりと言われれば、そうとも言えなくはないですが、すべてが数珠つなぎにつながって、一連の出来事として起きているのです。
・もしも母が、父ではなく、別の男性を選んでいたら・・・
・父が究極のエゴイストでなければ・・・
・入学した学校が、キリストと全く無関係な学校だったら・・・
・大学に、カウンセリングルームがなかったら・・・
・そして、たまたま就職した先がキリスト教主義の教会所属の病院でなかったら・・
そう考えると実にうまい組み合わせです。母の虐待、複雑な家庭環境、いじめ、これらが背景にあったからこそ、キリスト教高校の毎朝のラジオ放送のなかの「メッセージ」に、わたしの心は激しく揺さぶられ長い長い無言のSOSをキャッチしてもらえたのです。 それ以降、わたしの思いとは裏腹に、常に神様と隣り合わせの人生が続いています。
わたしは、社会へ出てから自分が「発達障害」である事を知り、仲間のために生きようと決意しました。こうして、一連の出来事を振り替えっていくと背後に神様の大きな働きがあった事を痛切に感じずにはいられません。良い事も悪いことも神様の御計画の中で起きています。わたしの一生は、わたしの成長に合わせてステップを一段、また一段と上がっていくように進んでいきます。”わたし”という人生プランは、あまりに壮大で、わたしたちのような限りある人の知識では、端から端まで見渡す事ができません。いつもわたしのそばにいて、慈愛に満ちたまなざしを向けてもらえている安心感がありました。わたしの人生は神様と出会い、神様の愛の懐にとどまりながら、導かれるままに生きていく人生です。
神様は、すばらしい恵みと溢れるほどの祝福を注いでくださっていました。だから、わたしの人生は「神様ありがとう」なのです。
上村聡美