第13章 死 人は、自分は死んだらどうなるのか、いつも真剣に考えてきました。古今東西を問わず、死後もいのちは存在すると信じられいます。世界中の宗教的儀式が、人は死んですべてが終わるのではないと信じていることの証拠です。「死んだ人は今どこにいるのか。」「天国はあるのか。」「苦しみを受ける場所があるのか。」「それは、どのような所なのか。」こうした問いをよく聞きます。 人間は、3つの要素が一体化した存在です。つまり、人間は、肉体と魂と霊から成り立っています。 1テサロニケ5:23 肉体は物質的な存在で、ほかの2つは物質ではありません。人は霊で神様を認識し、魂で自己を認識し、肉体で世界を認識します。ただし霊と魂は、神様の言葉によってのみ区別することができます。へブル4:12 魂と霊は、死ぬときに肉体から離れます。亡骸(なきがら)は墓に葬られます。クリスチャンが死んだ場合は、その肉体は眠っていると表現され、 使徒7:59, 60; 8:2 いっぽう、救われてない人が死んだ場合は、死んでいると言われます。魂と霊は、決して眠りません。救われた人が死ぬとその霊と魂は、喜びと幸せに満ちた場所 - 天国へ行きます。 2コリント5:8; ピリピ1:21-23 もし救われていなかったなら、その霊と魂は、嘆き悲しみに満たされ罰を受ける場所 - 地獄へ行くのです。 さらにルカ16:19-31で、死んでしまった人にも意識はあると、私たちの主がはっきり教えておられます。 死んでも、魂は眠りません。キリストにあって、死ぬということばは、聖書のことばで言うなら、「憩(いこ)う」という意味です。「意識が消滅する」ではありません。肉体は死ぬかもしれませんが、魂と霊は、はっきりと意識があって、決して死にません。聖書で死と言う時には、いつも分離を意味します。ですから、肉体的な死は、魂と霊が肉体から分離することであり、霊的な死は、神様から永遠に分離される(分け隔てられる)ことなのです。 私たちは、肉体が魂と霊を宿している存在ではなく、魂と精神が肉体をもってる存在であって、この世における死とは、「私の魂と霊が、肉体を離れた」という意味なのです。
第13章
死
人は、自分は死んだらどうなるのか、いつも真剣に考えてきました。古今東西を問わず、死後もいのちは存在すると信じられいます。世界中の宗教的儀式が、人は死んですべてが終わるのではないと信じていることの証拠です。「死んだ人は今どこにいるのか。」「天国はあるのか。」「苦しみを受ける場所があるのか。」「それは、どのような所なのか。」こうした問いをよく聞きます。
人間は、3つの要素が一体化した存在です。つまり、人間は、肉体と魂と霊から成り立っています。 1テサロニケ5:23 肉体は物質的な存在で、ほかの2つは物質ではありません。人は霊で神様を認識し、魂で自己を認識し、肉体で世界を認識します。ただし霊と魂は、神様の言葉によってのみ区別することができます。へブル4:12
魂と霊は、死ぬときに肉体から離れます。亡骸(なきがら)は墓に葬られます。クリスチャンが死んだ場合は、その肉体は眠っていると表現され、 使徒7:59, 60; 8:2 いっぽう、救われてない人が死んだ場合は、死んでいると言われます。魂と霊は、決して眠りません。救われた人が死ぬとその霊と魂は、喜びと幸せに満ちた場所 - 天国へ行きます。 2コリント5:8; ピリピ1:21-23 もし救われていなかったなら、その霊と魂は、嘆き悲しみに満たされ罰を受ける場所 - 地獄へ行くのです。 さらにルカ16:19-31で、死んでしまった人にも意識はあると、私たちの主がはっきり教えておられます。
死んでも、魂は眠りません。キリストにあって、死ぬということばは、聖書のことばで言うなら、「憩(いこ)う」という意味です。「意識が消滅する」ではありません。肉体は死ぬかもしれませんが、魂と霊は、はっきりと意識があって、決して死にません。聖書で死と言う時には、いつも分離を意味します。ですから、肉体的な死は、魂と霊が肉体から分離することであり、霊的な死は、神様から永遠に分離される(分け隔てられる)ことなのです。
私たちは、肉体が魂と霊を宿している存在ではなく、魂と精神が肉体をもってる存在であって、この世における死とは、「私の魂と霊が、肉体を離れた」という意味なのです。
人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。箴言19:21
私の幼年期は神戸で靴磨きをしました。・・・私が神様を信じたのは18歳の頃でした。恵みと共に、様々な辛苦の中で主の道に進ませてくださいました。
神様の前で結婚するのだから、神様を信じてそれから式を挙げましょう。
「あなたがイエスさまを十字架につけて殺したんだ。」と聞いたとき
「私の罪を、2000年も前のこの人が、どうやって?」聞こえてきたBBNのメッセージ