第7章
救い
救いについて見ていきましょう。救いの必要性は、聖書の中で明確に教えられています。神はこの世を霊的に二つの家族と見ておられます。一つの家族は、悪魔の子供たちから成っています。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです」(ヨハネ8:44)。もう一つの家族は、神の子供たちから成っています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ1:12)。
あなたは今、どちらかの家族に属しています。もしあなたが今日死ぬなら、属している家族によって、自分の永遠の行く先が決まります。今あなたは、神の家族に属していますか、それとも悪魔の家族に属していますか?これは、あなたしか答えることのできない質問です。
神がご自分の御子イエス・キリストをこの世に遣わされたのは、イエスが世の罪のために死に、サタンに打ち勝ち、それによって私達が「再び生まれる」方法を与えるためでした。これが重要な鍵です。「人は、新しく生まれなければ、神の国をみることはできません」(ヨハネ3:3)。この新しい霊的な誕生は、私達を神の家族の一員にしてくれます。救いとはこういうことです。
救いや新生でない十一項目
1.自然に生まれる世代や子孫によらない―「血筋」によるのではありません。人がクリスチャンの家庭やクリスチャンの親から生まれても、それによってクリスチャンになるわけではありません。
2.自己決定によらない―「肉体的な意思」によるのではありません。子供が自分で生まれることを選べないように、誰も、自分の努力によって新しく生まれることはできません。
3.人間の仲介によらない―「人の意思によるのではなく、神の意思」。どんな宗教の祭司、預言者、説教者、監督、またほかの霊的な指導者と思われている人、教会の中の地位が高い人でも、新しい誕生や霊的な命を人に授けることはできません。どんな宗教の儀式、犠牲、苦行、懺悔、および繰り返しの祈祷でも、新しい命を誕生させることはできません。
4.肉体的な変化ではない。キリストが、このことについてのニコデモの誤解を正してくださり、それは霊的変化であることを示されました(ヨハネ3:6)。
5.社会的、地理的な変化ではない。再び生まれた人が、突然天国へ移されるわけではなく、続けて地上に住み、自分の主である救い主を喜ぶことです(1コリント7:20-24;コロサイ3:22-24)。
6.知的理解によらない。人は新生しないで、宗教的な教育を受け、教職者として按手を受け、説教者になることもできます。そういう人は大勢います。理論的にはその必要が分かっても、経験によって知りません(2ペテロ2:1,20-21)。
7.進化の過程によらない。人の内にある霊的生命の細菌種のようなものが、段階的に発展するものではありません(エペソ2:1-2)。罪人は、霊的に死んでいると描写されています。それは過程ではありません。誕生が命を即座にもたらします。誕生がないところに、生命の発展はありません。
8.改革や自己改善により、表面的な悪習をやめることではない。それは、人の礼儀や習慣の変化でもありません(エペソ2:8-9)。それは、新しい命を与えることです。「わたしは彼らに永遠の命を与える」(ヨハネ10:28)。
9.水のバプテスマによらない。海のすべての水が、人を救ったり、聖めたりすことはできません。人間が何と言おうと、人を救うことのできる水はありません。バプテスマは、イエス・キリストの死、埋葬、そして復活を表す礼典であって、それ以上には何の意味もありません。私達がバプテスマを受ける時、それは神が私達の人生の中でしてくださったことを公にする証しです(1ペテロ3:21)。私達は、水によって救われるのではなく、十字架上で流されたイエス・キリストの血によるのです。
10.堅信礼によらない。ある教会では、ふつう12,13歳の子供に、ある儀式を授けて、それを受ける者たちが救われたと主張します。時々、これは聖霊を受けたことを意味する油の注ぎである場合があります。これはいつわりの教理です。人間の行為によって聖霊を受けるのではなく、イエス・キリストを自分の個人的な救い主として受け入れることによるのです(ヨハネ3:6)。
11.宗教的信仰や教会員資格によらない。新生することなしに、宗教熱心な信念を持ち、バプテスマと堅信礼を受け、教会員になり、聖餐式を受け、日曜学校で教え、教会の指導者になり、牧師や神父になり、奇跡のような癒しや預言をすることもありえます(使徒 8:22-23)。新生の必要性は、当時、一番宗教的に熱心で、道徳的に優れた人の一人に明らかにされました(ヨハネ3:1-16)。
新生は、霊的な変化であり(ヨハネ3:8)、神によってのみもたらされるのです(ヨハネ1:13)。
救いである七項目
I. 定義
救いという言葉を単的に言うと、解放するという意味です。普通は、迫りくる危険から人を解放する行為を表します。おぼれたり、燃え盛る建物や、沈んでいく船から、人を救うというように使います。それぞれのケースには、三つの要素が見られます:(1)救われた人は、死の危険にさらされていた。(2)誰かがそれを見て、救助に行った。(3)救助隊は、救出に成功し、その人を危険から解放し、それで彼を「救った」。聖書には、「救う」、「救われた」、「救い主」、「救い」といった言葉がたくさん出てきて、霊的意味においても、まったく同じ意味を持っています。
II. 必要性
だれもが直面する二つの事実のために、神の救いが必要です。
A. 人の罪の事実(ローマ3:23)
全ての人の霊的状態については、今までの学びですでに述べてきました。全ての人は、生まれながらにして悪魔の子供です。人は誰でも、罪の性質をもってこの世に生まれるので、人は生まれながらにして罪人だと指摘してきました。この罪の性質が、やがて罪の思い、罪のことば、罪の行ない、神に敵対する態度となって現われるのです。聖書は、これらを多くの事例をもって明らかにしています(ローマ5:12, 18, 19; 6:16; 8:5-8; 創世記6:5; エペソ2:1-3; 2 コリント4:3-4; イザヤ53:6; エレミヤ17:9; マルコ7:20-23; ローマ1:21-32; 3:19-23)。
これらのみことばからわかる明らかなことは、人間は
1. 罪人で、赦しが必要です。
2. 失われており、見つけられる必要があります。
3. 悪魔の子供で、神との新しい関係に移らなければなりません
4. 有罪であり、神だけが与えることのできる赦しが必要です。
5. 霊的に死んでおり、神だけが与えることのできる命が必要です。
6. 盲目で、神のみことばから来る光を必要です。
7. 奴隷であり、サタンと死から解放される必要があります。このように、人は、自分で自分を救うことができません。
B. 神は義であるという事実
神は聖なる方であり、罪を罰さなければなりません。神は「罰すべきものを決して赦しません」(出エジプト記34:6-7)。 神は罪を憎み、罪のままで死んだすべての人に判決を下します。これは、神の御前から永遠に追放されることです(ヨハネ8:21-24; マルコ9:43-48; ルカ16:22-31; ユダ11-13; 黙示録20:11-15 )。明白な結論は:人は罪人であり、神は義なる方であるということ;罪人はその罪の罰から解放されるか、救われる必要があることです。人の叫びは「救われるためには、何をしなければなりませんか」とならなければなりません。その答えは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:30-31)。 誰も自分で自分を救うことはできません。
III. 準備
福音とは、愛する御子の人格と業を通して、神が驚くべき恵みを持って、与えてくださった救いである良い知らせのことです。二つのことが、はっきりと教えられています。
A. キリストは、罪人の救い主として来られた。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)。父なる神や聖霊と等しく、永遠の存在である神の御子は、救いを与えるために受肉されました(ヨハネ3:16-17; マルコ10:45; マタイ9:12-13; ヨハネ10:11; 15-18)。
B. この救いは、神の完全にみこころに従い、キリストの死とよみがえりを通して与えられました。
キリストは、自ら進んで十字架に架かられたとき、私たちのすべての咎と罪の負債を負い、その身に私たちの罪を負い、すべての罪人のために身代わりの犠牲として死なれました。罪に対する神のすべての裁きがキリストにくだされ、罪人を罰するという神の義が、キリストの死によって完全に満たされたのです。神は、キリストを死人の中からよみがえらせ、ご自分の右のみ座に座らせたことによって、キリストの犠牲を完全に受け入れたことがわかります。以下を読んでください( 1コリント15:1-4; 2コリント5:21; 1ペトロ(ペテロ)2:24; イザヤ53:5; ローマ5:6-9; 使徒4:10-12; 5:31; 17:31)。
IV. 条件
キリストが、ご自分の犠牲によって罪人の救いに必要なすべてのことを成し遂げてくださったのですから、この救いを得るために、罪人は何をしなければならないでしょうか?
A. 悔い改めなければなりません。
悔い改めとは、心を素直に入れ替えることで、その結果、罪や自己や救い主や救いに対する態度が変わります。行ないが変わることで、そのことが明らかになります。以下を読んでください(ルカ13:3; 使徒17:31;20:21)。罪人が罪のとがめを感じると、救いを望み求めるようになり、プライドが謙遜に、自己満足が、どうしようもなく、希望もなく、地獄に行くほかはない状態についての素直な告白に変わります。
B. キリストの人格と業についての神の証や福音をを信じなければなりません( 1ヨハネ5:9-10)。
失われ、有罪である者として、キリストが自分のために死んでくださったことを信じなければなりません。、つまり、キリストが自分の罪を負ってくださり、身代わりとなり、救いに必要なすべてのことを成し遂げてくださったということです(ローマ4:5)。
C. 主イエス・キリストを自分の個人的な救い主として自分の明確な意志をもって受け入れなければなりません。これ以後は、キリストを人生の最高の主人としなければなりません(ヨハネ1:12; ローマ10:9-10;ヨハネ3:16; 5:24; 6:47; エペソ1:13)
次は、決定的な行為です。あなたは心から言いますか:「主イエス・キリスト、私は有罪で、失われた罪人であることを認めます。私は、あなたが私の罪をカルバリの十字架上で負われ、私の代わりに死なれたことを信じます。今、私の心に入り、私をお救いください。十字架上で成し遂げられた業を信頼し、私の人生の救い主として受け入れます。そして私の人生の主、主人となってください」これが、「主イエス・キリストを信じる」という意味なのです(使徒16:31)。 もし、あなたがこの告白をしたことがなければ、今すぐこの信仰のステップを行い、あなたを救ってくださるようにキリストに願ってください。
V. 確信
どうすれば、自分は確かに救われたと知ることができるでしょうか。私たちは躊躇なくお答えします。それは神のみことばによるのです。イエス様を信じた魂は赦され、救われ、永遠の命を持ち、いつまでも守られると、神ははっきり宣言しています。以下をお読みください(使徒13:38; 1ヨハネ2:12; エペソ2:8; 1コリント6:11; 1ヨハネ5:13; ローマ5:1; 8:1; ヨハネ10:27-30)
ほかにも証拠があります。新しい内的平安、聖書を知りたいと思う願い、祈りたい、罪の生活から離れたいと思う願いです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(2コリント5:17)。
VI. 範囲
救いは、過去、現在、未来の三要素があります。
A. 過去 ― 罪の違反やその結果からの救い
私たちの罪によるすべての罰を、キリストが受けてくださったので、クリスチャンは罪の結末から解放されています(ヨハネ5:24; ローマ8:1)。
B. 現在 ― 罪の力や支配からの救い
聖霊が内在され、さらに神の性質を与えられたことにより、信者は、人生にあった罪の支配から解放されたことを喜ぶことができます( 1コリント6:19; 2ペテロ1:3-4; ローマ6:1-14)。これは、クリスチャンが罪を犯すことが出来ないということではありません。そうではなく、クリスチャンには、まだ「肉」と呼ばれる悪い性質がありますから、罪を犯さないのではなく、罪を「犯そうとしないようになる」という意味です。神がくださった方法を役立てれば、罪は人生をコントロールする要素ではなくなります。この勝利は、以下のことにかかっています:
1. 神のみことばを読み、学び、従う(2テモテ2:15)
2. 祈りによって、常に神に結びつく(へブル4:14-16)
3. 正しく有益な人生のため、自分の体を神に委ねる(ローマ6:13;12:1-2)
4. 神にすぐ告白し、知る限りの罪を捨てる(1ヨハネ1:8-9; テトス2:11-15)
C. 未来 ― 罪の存在からの救い
これは、キリストが再臨する時に起こります。キリストが死人をよみがえらせ、生きている者を変えるとき、その人たちは罪と滅びと死のない体を持ちます。私たちの求めている救いの最終段階です(へブル9:28;1テサロニケ4:13-18)。
VII. 結果
救いの結果は、沢山あります(エペソ1:3-14)。いくつかを見てみましょう。
A. 神との平和(ローマ5:1)。敵意はもはやありません。
B. キリストにある、神の受容(エペソ1:6)
C. 新しい家族に加わり、神の子供としての喜び(ローマ5:10-11; 8:14-17; ガラテヤ 3:26-4:7)
D. 神のために生きる(2コリント5:14-15; ガラテヤ2:20; 1ペテロ4:2-5)
E. 善行による神への奉仕と証し(エペソ2:10; マタイ5:16; マルコ 16:15-16
F. 神への礼拝と賛美と祈り(ヨハネ4:23-24; へブル4:14-16; 10:19-22; 13:15)
G. 神とともにある天の永遠の家(ヨハネ14:1-3; 黙示録22:1-5)
神のみことばの権威により、自分が永遠に救われていることを知らなければ、あなたの心に安らぎはありません。